好きな漫画家:高野文子編

この日記を書いている間に日付が変わってしまった。
昨日、本当に笑いすぎて涙が出た。久しぶりだった。

人生で好きな漫画家が何人かいる。そのうちのひとり、高野文子について。

高野文子という漫画家は人から教えてもらった漫画家だ。もともと新井英樹(この漫画家に関しても、後日書いていきたい)や福本伸行など男臭くてハードボイルドな漫画を割と好む方だった私は、ストーリーよりも作者の感覚というものが強く出る、ガロ系と呼ばれる漫画にはとても疎かった。

最初勧められて読んだのが、「棒がいっぽん」という単行本。この一作を初めて読んだのが運が悪かったというか…
彼女の尖っている部分が非常に現れている短編集だった。その中に入っている有名作「奥村さんのお茄子」を読んだ時点で私の頭の中はハテナでいっぱいになった。何度読んでも意味がわからず、ついには『奥村さんのお茄子 高野文子 解説』とググってしまうほど。理解できなかったのが悔しくて、人の持っている高野文子の他の単行本を借りることにした。この単行本が訳わからないだけで、他の作品は理解できるかもしれないという希望を持って。

https://www.amazon.co.jp/%E6%A3%92%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%BD%E3%82%93-Mag-comics-%E9%AB%98%E9%87%8E-%E6%96%87%E5%AD%90/dp/4838706138

 

 

彼女の作品と出会ったのは、そんな意図しないところからだった。
作品ごとの感想については後述するが、まずは高野文子本人のことについて少し触れることにする。

高野文子が初めて商業デビューをしたのは1979年。「絶対安全剃刀」という単行本が出版されたことから漫画家人生が始まる。その前は看護師として働いており、現在は離職をしているようだが、ときどき近所の体調不良者の手当てなどをしているようだ。(ユリイカ-高野文子特集より)

作風だが、作品の年代によって変遷をすごく感じる。「絶対安全剃刀」や「おともだち」「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」「るきさん」(出版年代順-〜1993年あたり)の4作は当時の少女漫画のエッセンスが色濃く出ている。だが、前述したようにガロ系の系譜を汲んでおり、特に初期の「絶対安全剃刀」は絵柄こそは当時の少女漫画の流行を感じつつも、演出にどこかその流行を冷めた目で見ているような、傍観者のような振る舞いが作品から滲み出ているような気がする。
彼女の感性はどこかドライなものがある。後述する作品含めて基本的に短編集や、一巻完結の漫画しかないが、作品の多くが生活で感じる心の機敏、感情を捉えたような作品が多い。なのに、それに感情移入させる作風ではなく、あくまでも遠くからその機敏を感じとる登場人物を見ているような、そんな描き方をしている。

上記4作から少し作品の雰囲気が変わってくるのが、1995年の「棒がいっぽん」だ。このころから絵柄もシンプルになっていき、コマ単位の絵の美しさを求めるよりは登場人物の動きや構図などに重きを置いた画風になっている。その辺りの、のびやかな人物画とすっと入ってくるようなシンプルな線が私はすごく好きで、絵の上手い漫画を挙げる際に高野文子を入れる理由となっている。
「棒がいっぽん」とその後の「黄色い本」は、高野文子を代表する2作と行ってもいいだろう(「絶対安全剃刀」を挙げる方も非常に多いけど)。彼女のドライな感覚を保ちながら、SFチックなストーリー構成や、どこかノスタルジーを感じつつも空想の世界に入り込むような感性の切り取り。高野文子のナマの感覚を味わいたいなら、この2作を読めば間違いない。
11年経って発表した最新作は「ドミトリーともきんす」という、有名な科学者の学術書を漫画に落とし込んで解釈を広げる、これまた別のベクトルで尖った作品だ。

詳しい経歴は彼女のWikipediaを参照して欲しいのだが、インタビューをいくつか読むと、彼女がそれほど漫画という表現に強いこだわりを持っているわけではないということがたびたび記されている。
これは漫画を読んだり、該当のコマを見てみないとわかりづらいが、彼女は映画が好きらしく、コマの構図もなんとなく映画のワンシーンのような構図がたびたび出てくる。特に中期の「棒がいっぽん」「黄色い本」あたりは特に顕著だ。ともすればややパースがあっていなかったり、コマ①→コマ②と遷移するときにやや構図の変わり方に違和感を覚えることもあるが、これは全て「映画を撮っているカメラを通してみている景色」と思うと納得がいくことが多い。

また、高野文子スクリーントーンの魔術師と呼ばれたこともあるほど、トーンづかいも素敵だ。2色(?)のトーンを使って濡れている地面を表現したり、夏のあのもくもくとした雲を表したり。彼女は本当に絵がうまい。取り上げる題材や表現のドライさに注目されることが多いが、なんとも言えない自由な線からなる、実際に動いているような彼女の絵が本当に好きだ。
個人的には、コマ単位で美麗な絵を描く漫画家も好きではあるが、新井英樹にも感じる、「動」の漫画というか、次の動きが予測できたり、人間におくゆきがある絵を描く漫画家が大好きだ。実際、高野文子は人間を描くときにこだわりがあるようで、Gペンの線の太さ細さで人間の奥行きをだし、目を極力シンプルに描くことで、物語の邪魔をしないように取り計らったり…
一見、ささっと描いているように見える絵でも、こうやって裏を知るとなかなか興味深い。

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ここからは完結に私が読んだ作品ごとに感想を書く。

「絶対安全剃刀」
高野文子が漫画を描いている、その原点であり、彼女の漫画で表したいことがたっぷりつまった短編集。絵は当時の少女漫画のブームを表すかのように繊細で、当時の作品を好んだ人間にはとても懐かしく感じるものであろうと察する。その画風と反し、収録されている作品はどこか怖くて、ややグロテスクで(いろんな意味で)、皮肉的だ。とくに「田辺のつる」は漫画でないとなかなか表現できない作品だ。読み進めていくと、静かに、ぞくぞくとした気持ちになる。なんとなく、女性的な感覚を一番感じるのもこの短編集かもしれない。ガロ系!という感じで、人を選ぶ。

「おともだち」
日本とアメリカの少女たちをメインに物語を捉えた短編集。日本舞台、アメリカ舞台書く2作前後からなる短編集で、前作より対象年齢をやや下げても通用するというか、物語としては全体的にわかりやすくなっている。どの感想や書評でも取り上げられているが、作品の一つ「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」はとてもいい。中学生あたりの少女たちが「青い鳥(チルチルとミチルのやつ)」の舞台を行う、という物語。短編映画を見ているような、昭和の思春期の少女の、甘酸っぱく儚いノスタルジーたっぷりの綺麗な物語だ。彼女たちのきらきらとした青春の一瞬を覗いたような、素敵な一作だ。割と勧めやすい。

「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」
「おともだち」のアメリカ編は割とスパイ映画っぽさを感じる一作があったのだが、それを一巻完結で仕上げたような作品。
大型デパートで売り子として雇われた少女・ラッキーが、スパイを相手にデパート中を駆け回る冒険活劇であり、全編に渡りスパイ映画におけるカメラワークを思わせる多彩な画面構成が用いられ、スピード感やスローモーションをコマの連続で表現することに成功している。(Wikipediaより)
の、通り、児童文学のような冒険活劇を感じる作品だ。高野文子作品で一番を争うほど受け入れやすいのではないかと思う。この作品から構図のキレがすごくよくなってくる。というか映画っぽさを増してくる。勧めやすいが、高野文子感は少なめ。

るきさん
私はこの作品が一番好きかもしれない。高野文子サザエさんというか。雑誌Hanakoで連載されていた四コマを収録したもので、「るきさん」というお気楽で俗世間から離れ質素な生活を送る不思議な主人公と、現代だとバリキャリウーマンと言われるミーハーなるきさんの友達「えっちゃん」をメインにした、当時バブル〜バブル崩壊直前を生きる独身女性のほがらかな四コマ。
というとなかなか時代を感じるかも、そう思われるかもしれないが、意外と読んでいるとそこまで違和感を感じない。多分、主人公のるきさんが流行に疎く、どんな時代でもるきさんっぽく生きてそうだからかなあ。対照的に流行を追いかけるミーハー体質なえっちゃんが可愛らしく感じる。ベタベタしていないけど、近くに住んでてふらっと家にいって晩ご飯を囲むことができる。こんな友達関係いいなあ、と思わせる作品。勧めやすい。

「棒がいっぽん」
こちらも短編集。この辺りから(もっというとるきさんあたりから)、人物の描き方が結構変わる。シンプルでのびのびとした。「奥村さんのお茄子」は高野文子が天才である、という言われ方をするときによく引き合いに出される作品だ。ストーリーが非常に難解というか、初めて読んだときは突拍子もないシーンの連続にしか感じなかった。同収録「東京コロボックル」とかの方が感覚として受け入れやすい。
私がこの短編集を好きになったのは、作品や作者の評論雑誌「ユリイカ」の高野文子特集を読んでからだった。その中に「奥村さんのお茄子」についての解説があり、それを読んでから同作を読むといくらかわかりやすくなる。同時に高野文子のストーリーの構築の大胆さに気づく。彼女の作品のいいところは「絵」「感性」とあったが、ここに来て初めて「構成」も非常に面白いことに気づいた。収録されている他の作品も最初読んだときは???となるものばかりだったが、落ち着いて読むと描きたいことがなんとなくわかるようになった。不思議な作品だ。人を選ぶ。

「黄色い本」
表題の「黄色い本」を含めた短編集。前作よりも少し感覚的な作品が多め。
「黄色い本」は本や漫画、何かの物語にのめり込んで妄想をしたことがある人ほど、「ああなんか、わかるなあ…」という気持ちになる作品だ。学生時代の自分を思い出して懐かしい気持ちになるような、恥ずかしさとその後自分に訪れる現実に甘酸っぱさというか、ほろ苦さを感じる作品だ。同収録の「マヨネーズ」や「二の二の六」は人の可愛さというか、面白さが前面に出ている。「るきさん」で感じた人間の可愛さというのを短編にしたらこんな感じだろう。わりと勧めやすい。

「ドミトリーともきんす」
う〜ん、高野文子はとんでもないことをするな、とこの作品で改めて感じる。日本の科学者がもし、学生寮に一度にあつまったら…という妄想のもと、それぞれの科学者にフィーチャーして彼らの研究と本を紹介する、よくある偉人紹介児童漫画に近い物を感じる作品。この作品は実際にいた科学者を通常のGペンで描き、架空の学生寮の寮母さんを一律同じ太さでかけるボールペンのような物で表現する、という書き分けをしている。これだけでも絵的に面白いのだが、一番は科学者の紹介の前に前書きとして、ある種思考実験のような話を入れているところだ。世界が赤ちゃんの歩ける、家の端から玄関までしかなかったらどうなるんだろう…みたいな話。もう意味がわからない。どうやったらそんな話を作ろうと思いつくんだ?

ちなみに、この作品の中で彼女が一番絵がうまいと思う一場面がある。人を選ぶ

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余談

高野文子、彼女はドライだと少し触れたが、もっというと意地悪で怖い面がある。看護師をしていて、人の病や死に触れてくる中で、生と死、人生を客観的に見る癖があるからなのか。
それを一番感じたのは、美大生が漫画アンソロジー自費出版?している雑誌に高野文子が寄稿したときだ。(その雑誌の名前を失念したが、スカートの沢辺氏や浅野いにおなども寄稿していた、わりとスゴイアンソロジーなのだ)
高野文子がどんな作品を寄稿したかというと、10ページ前後の原稿用紙に綴ったエッセイなのだ。震えた。漫画のアンソロジーだっつってんのに、あなたは漫画家として呼ばれているのに、まさか、手書きのエッセイを寄稿するなんて。

尖りすぎている。意地の悪さを感じる。最高だ。
それが彼女の作品のどこかから顔を覗く、皮肉っぽさに繋がるのかもしれない。