四月の神奈川は寒い

神奈川のとある駅に私は降り立った。もう四月だというのに、いまだに冷たさを孕んだ風を体全体で受け止めている。

地元神奈川を離れてもう四年。横浜のニュータウンで生まれ育った私だが、二十一年住み続けていても神奈川の地にはどうにも馴染めなかった。実家にいた時代から遊びに出かける際は渋谷か新宿と決めていて、今や都内で淡々とした一人暮らしをしている自分が今になって相模大野に向かったのは、これから訪れる長い休みの前に自分のルーツを見直したくなったからだった。

この地によく来ていたのは高校を卒業してすぐの頃。町田の近くに住んでいた友人に連れられて、しょっちゅう駅近くの喫茶店に入り浸っていた。その喫茶店は壁一面に映画のポスターを貼り付けていて、昼でも薄暗い。様々な大きさのソファと小さなテーブルが並び、店の中央にはボードゲームとスナック菓子がいくつか置かれている。

高校時代の友人と落ち合う時は決まってこの喫茶店と決めていた。年に数回あって、薄暗い店内の中で驚くほどリーズナブルなメニューとお酒を頼み、お互いの近況報告をしあう。今でこそ月日が経って疎遠になってしまったが、その喫茶店に集まる地元の若者たちで賑わう店内と、少しずつお互いの成長を感じていたあの時間は確かに私の中でまぶしく輝く記憶のピースの一つだ。

だが、今日相模大野に向かったのはその喫茶店目当てではない。その喫茶店を越えた先にある、タロット占いをしてくれるカフェを目指していたのだ。そのカフェにも昔いちどだけ訪れたことがある。ランチを頼むと一時間タロットで希望の事柄について見てくれる、というカフェだった。前に行った時からもう四年も経っている。その当時付き合っていた恋人について悩んでいた私を高校時代の友人が連れて行ってくれたのだ。

占いというものにちゃんと向き合ったことのない私にとって、本格的な占いを受けるのは初めての出来事だった。カフェのマスターはとても親身な人間で、優しく人々を包むような、ときたまバシッと激励の言葉をかけるような人柄である。人気の証か、私が占いを受けている時も別の客がカフェに訪れて占いの予約をしていく。

短くない年月が経っているので、私は少し緊張していた。予約をしっかりしたし、場所もわかっている。でももしかするとあの店は私の記憶の中で在り続けているだけで、すでに現実の中では無くなってしまっているのでははないだろうかとまで考えていた。
そんな妄想とはうらはらに、確かにタロット占いのカフェはそこに存在していた。少し重い扉を開けると一際大きく元気な女性の声が耳に飛び込んでくる。

「だから、私は絶対に幸せになる!」
「それはいいんだけど、そのままじゃダメなんだって!」

大きな声で男女が言い合いをしている。男の方はこのカフェの占いをしてくれる、というマスターだ。ひときわ大きい声ではしゃいでいるのは、女の方。きっと前の時間で予約していた客だろう。私より少し若そうに見える彼女は、占いの内容から発展して人生相談をしているところのようだ。

席に通されてメニューを出される。そのまま暖かいロイヤルミルクティーを出してもらい、私は彼女たちが話し終わるのを待っていた。彼女たちの話に耳をすませていると、とても話の内容がおかしくてときどきこちらまで笑いそうになってくる。

彼女はものすごく、なんというかパワーのある人間だと感じた。確かに言っている内容は「いい大学の男性と付き合いたい」とか、「この大学に受験したい」など突拍子もない話ばかりしているのだが、彼女自身がもっている力強さと自己肯定感によって、なんだかもうそのまま突っ走ってくれ、というしかないくらいの行動力を感じる。

「二十歳になったら全部変わるから! いい大学入って、好きな男の子とここに来るんだからね! 見ててよ!」

彼女が大きな声で冗談っぽく言う。それに対してマスターが「何言ってんの!」と負けずに大きな声を出す。とうとう私は堪えきれず笑ってしまった。
オンステージだ。そう狭くないカフェで、私とマスター、そしてカフェのスタッフ一人という少ない四人の客相手に漫談を行っているような。

「ごめんなさいねえ、こんなにうるさくて……」マスターが申し訳なさそうに私に向き直る。
「いや、面白くてつい笑っちゃいました」
「この際だからこの子に言ってやってくださいよ。ねえ、あなたは何歳?」急に巻き込まれる。
「私? 私はもう二十五になります」

ほらあ、と納得したようにマスターは女に向き合う。女は二十歳にもならない若い学生のようだ。二十五歳の観点からみて、この子どう思います? と話を振られてしまったので、改めて横の席にいる彼女に体を向ける。キラキラした真っ直ぐな眼をこちらに向けて私の言葉を待っている。いやあ、私はただの客なのに、何かこの人に言っていいものだろうか。

だが、何かの縁のように感じたのと、マシンガントークで楽しそうに話す彼女を見ていると昔の自分を見ているようで少し懐かしく思い、私は少しでも大人っぽく見えるように言葉を選びながら話すことにした。

実際、私だって周りの二十五歳より大人びているわけではない。もっといろいろ深みのある経験をしてきた同年代がいるだろう。もちろん私自身もそれなりに辛い思いをしたり、自分自身でどうにもならないほどの問題にぶち当たってはいたが、結局いまだにその問題に対して答えを出せていないことなんていくつもある。

「えっと、まず、それだけ強い思いがあるってことは素敵だと思います」
「でしょ! 嬉しい!」とびきり素直に彼女は笑う。目の前にいるマスターはすでに呆れ顔だ。
「でも、あえて言うなら、道を一つだけに絞らなくたっていいのかな、とは思って……もちろん、自分がやりたいことを叶えられるならそれに越したことはないんだけど、それが絶対叶えられるとは限らなくてね。そうなるくらいなら、一つの道だけじゃなくていろんな可能性を見て動いていくってのもいいんじゃないかなと」

そう言いながらこれまでの自分の歩んできた短い人生を思い返していた。私も昔に「やりたかったこと」でご飯を食べたいと思いそれなりに努力をしていたが、好きなものは好きなもの。仕事にするとなると、とても辛い思いをしなければならないこともあった。

だけど、それに耐えることができなかった。仕事だけじゃない。友人関係でも恋人との関係でも、全て自分の思い通りに行くことはなく、流動的に変化していく状況に合わせて自分の行動を変えなくてはならないことがたくさん、たくさんあった。隣にいる彼女を見ていると持っているパワーの強さを尊敬しつつも、もし何かを諦めなければいけない時がきたら、ぽっきり、彼女が思っているよりも簡単に心が折れ真っ白になってしまうこともあるのではないか、と心配になるのも事実だった。
 
当の彼女は、うんうんと深く肯いたかと思えば、それでも、と言わんばかりにひどくポジティブな感情をさらけ出してきた。

「それでも私はやりたいんですよ!」
「だめだ! 二人がかりで言ってもこれなんだもん! 強すぎる」
「ねえ、なんでそんなこと言うの! ひどい!」

くだらないじゃれあい。ここまで折れない、強い主張がある人を久しぶりに目の当たりにした。いつもの私ならひどく苛ついていたかもしれない。だが、その日は自分のこれまでの歴史を振り返ろうと思って神奈川の地に訪れたのもあって、自分の昔を見ているような暖かな気持ちになった。もはやここは、占い屋ではない。まるで午前0時の常連ばかり集まるバーのような賑やかさを持っている。前に行きつけのバーが欲しいなと思ったことがあったが、今この状況は結構近いのではないかとさえ感じた。

私も変わった。昔は初対面の隣の席の客と話すなんて考えられなかったのに、事実、そういう機会があってもうまくコミュニケーションが取れなかった苦い記憶があったのに、この場では自然と昔からの友人と話しているように振る舞えている。
それは自分の変化でだけではなく、隣にいる彼女の輝きがそうさせてくれているのだ。年下の人間と話すのは苦手だったはずだ。それでも、眩しいくらいの明るさを放つ彼女にやられていつの間にか暖かな笑いがそこに発生している。

そろそろ私の占いを始める、という時間になり年下の彼女は帰り支度を始めた。その最中もずっとマスターと冗談めいた言い合いをしている。私の周りにいないような勢いの良さに、思わず私も「幸せにね」と声をかけていた。

 

「ねえ、彼女走って帰っていってますよ」

外まで彼女を見送ったカフェのスタッフが呆れたように言う。嵐が過ぎ去ったように静かになった店内で、私は思い出し笑いをしてしまった。

予約通り占いをしてもらい、そのカフェを後にした。普通では考えられないような大騒ぎをした後だったので、少し疲れている。私はといえば安定を求めず自分のやりたいように幸せになりなさい、ということを伝えられたのだが、マスターも思わず

「まあ、やりたいことやりすぎると、ああなっちゃうのかもしれないけど……」

と年下の彼女を思い返すように呟いていた。

急に一人になり、なんとなくあの騒がしさを忘れたくない私は、そのまま帰るのをやめて前述の馴染みの喫茶店に向かうことにした。少し余韻を感じる時間が必要であった。しばらく行っていないといえ体は覚えている。すぐにその喫茶店を見つけることができた。

よし、ここはまだ煙草を吸えるな、と喫茶店の外壁に付けられている「喫煙可能店」のプレートを見てほっとした。都内はもうほとんど喫茶店や居酒屋でも煙草が吸えなくなっている。困ったもので昔から喫煙可という看板を守り続けていた店も、ここのところ時代の流れに押されどんどん禁煙店に鞍替えをしている。扉を開けると、記憶のままの薄暗い店内が私を迎えてくれた。まだ夜とは言えない時間だが席の八割は先客で埋まっている。小さなソファのある席に座ってアイスココアを頼んだ。

待っている間、煙草を吸いながら店内をちらと見渡してみる。三人くらいの若い女性がきゃっきゃと楽しそうにおしゃべりしているテーブルがあれば、一人で物思いに耽っていそうな渋い男性客もいた。スケートボードを壁に立てかけてヒップホップ音楽の話をしている男性二人組がいて、近くにはその客と楽しそうに話している従業員もいる。

アイスココアが席に届いた。焦げ茶色のココアの上には、柔らかなホイップクリームがかけられている。ひと口飲むと、ココアといって思い浮かべるような味ではなく、ふわりと花の香りがするようなオリエンタルな味が口の中に広がる。花の蜜みたいだ、と私は懐かしい気持ちになった。

私が小学生の時、下校中にツツジの花の蜜を吸いながら帰るのが流行っていた。お小遣いも少ない中で、いかに空腹を満たすかを考え一定数の子供がたどり着くのが、花の蜜を吸うことだった。あれも実はすごく美味しいというものではなかったが、夕日が差し込む中友人たちと騒ぎながら甘さしか感じない花の蜜を吸うのは、結構面白いものであった。このアイスココアはその味に近い甘さがある。
ココアのテクスチャーはさらりとした水分量を多く感じるものである。飲み口はさっぱりとしているが、その独特な甘さゆえ一気に飲み干すことは難しい。少しずつしか飲めないその甘さも、小学生の時に見た気怠い夕日を思い出させてくれる。ノスタルジック。

今日はいろいろ、昔を思い出す日だったなと心の中で呟いた。自分の生まれ育った地に赴くことで何か初心にかえれるような気分になるかもしれない、という期待を持っていたのだが、図らずしも考えていたよりも直接的に自信を振り返る出来事に出会ってしまった。

昔、早口で何を言っているかわからないと言われてしまったことがある。その時はそこまで早口に喋っているつもりはなかったのだが、今日の年下の彼女を見ているとそう言われた意図がわかるような気がする。
考えているより自分は大人になったのかもしれない。

「ねえ、だから言ってるじゃん! あたし、一年後には絶対付き合ってみせるから!」

近くのテーブルの女性が身を乗り出して連れの女性に宣言をしているのが聞こえた。私の席からかろうじて見える彼女の顔は、決意に満たされ晴れ晴れとしている。

今日は人の宣言ばかり耳に入るな。苦笑する。私はイヤホンをつけFINAL SPANK HAPPYの「エイリアン・セックス・フレンド」を流し私は一人の世界に入ることにした。

キラキラと輝く人たちは皆エイリアンみたいだな。そんなことを思いながら、アイスココアを啜った。