そうめんとの共存

お題「夏に食べるもの」

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毎年、6月あたりから「おや、今年も半袖が着れるようになってきたな」と、冬から続く長袖の服たちをしまえるような陽気に感謝をするようになる。少し動いただけで汗がじんわりまとわりつくような長袖から、通気の良い半袖に衣替えをするたびにあったかいっていいなよあ、と感じることが増える。
しかし毎年7月あたりにやっと気付くのだ。夏は私にとって地獄の季節であり、忌み嫌うべきものだということを。

ここ数年、7月の半ばあたりから気温は30度をゆうに超えてくる。意味のわからないほどの熱気が日本を襲う。汗っかきの私にとっては、また地獄が始まる、と6月あたりに感じていた感謝の気持ちから手のひらを返して日本の気温を恨むようになるのだ。今私が住んでいるところが日本というだけで、昔旅行にいったハワイでもいくら湿気がないとはいえ日陰でもその地獄の気持ちは変わらないほど暑い。つまり真夏は一年の中で一番嫌いな季節なのである。

8月上旬の現在、外に数分出ただけでも泣き出したくなるほどの暑さが昼間を司っている。さらに、去年初めから世界に蔓延する新型コロナウイルスのおかげでほぼ全日本国民がこのクソ猛暑のなかマスクをせざるを得ない状況に陥っている。
少し前であればこんなに暑くなかったし、マスクなんてもってのほかだったので「暑いね〜!」とか言いながら、友人とキャッキャとかき氷を食べるためだけに日陰もない表参道の道路に並ぶことができた。だが、流石にこんな状況になっては去年、今年とそんなことはできていない。している人がいるとすれば、それはキラキラインスタグラマーではない。被虐愛好家だ。

そんな不自由な今年の夏でも私の心を躍らせてくれる風物詩がある。あまり季節のイベントに興味がない私だが、この時ばかりは定義づけたマスメディアには感謝するしかない。私が足を向けて寝れないのはどこだ。お台場か。六本木か。赤坂か。

そうめん。夏といえばそうめんなのである。

あらゆる飲食店にそうめんのメニューが頻出するようになるのが夏だ。さらに、私の家から5分のスーパーは夏になると揖保乃糸がかなり安くなる。まるで季節の野菜みたいな価格変動だが、三年住んでいて三年とも安くなっているのだからそういうこともできるのだろう。だって夏なんだから。
私は夏になると(正確には7月に入って暑さが尋常じゃなくなると)急いでそうめんを買いに走る。そのままスタンダードに茹でて麺つゆで食べてもいいし、豆乳スープでラーメン風にして食べるのもよい。今年Twitterで見つけたスパイスを使ったレシピも試してみたが、これまた美味しかった。クミンとツナの風味が、どうしてだかそうめんのつるっとフニャッとした感触と合うのだ。大食いの私でも夏は必ず食欲が落ちてしまうのだが、それを救ってくれるのは、そう、そうめんだ。

しかし昔からそうめんが好きだったわけでもない。
なんなら数年前までは苦手な食べ物だった。

中学生の頃まで遡る。
夏休みは親が頑張って毎日昼食を作って出してくれていた。それには今でも感謝の気持ちしかないが、作るのが楽だからか一週間に一回はそうめんが出てきていた。幸い母親も父親もそうめんに対してはどちらかというと好感度高めだったので、コンスタントに切らすことなくメニューがそうめんの日は続いていた。私はそうめんが出てくるたびに「またそうめんか」と思ったのだが、そう思うだけだった。そういう感情しかなかった。

そして、中学三年生、夏休み最後の日、いつものようにそうめんが出てきた。特に私はそうめんのことが好きでも嫌いでもなかったので、ごく普通に食べ、ごく普通に完食した。その時、声には出さなかったが、あることに私は気づいた。

「そうめん、食べるたびに胃のなかが気持ち悪くなっている気がする...!」

たまにこんな話を聞くことがある。好きな食べ物を何度も何度も食べていると、食べすぎて気持ちが悪くなり、その末に今後いっさい食べたいと思わなくなるほど苦手になってしまう。これを読んでいる人の中でも、一定数そういう出来事を経験したことがあるかもしれない。
つまりその時の私は同じようにそうめんを食べすぎて気分が悪くなっていた。

そうはっきりと感じる*まで自主的に食べようと思っていないので、気付くまでに時間がかかっていたのだが、実は週一回はなんとなく食後の気分が悪いと思うことが必ずあった。特に重大な病気などではないと思っていたが、まさかそうめんのせいだったとは。
* そうめんを食べすぎて気持ち悪くなると思うまで

それから私はそうめんをいっさい食べなくなった。夏以外そんなにそうめんと巡り会う機会がないので、そこまで困ることはなかったが、毎夏「そろそろそうめんの季節だね〜」とか腑抜けた会話が起こっていてもうまく乗り切れず、しまいにはそうめんが苦手とばれてなんとなく「そうめんが嫌いなことってあるのか?」みたいな、なんだこいつという目を向けられることもたまにあった。少し、その時ばかりは気まずかった。


しかし、その数年後、いまから四年前くらいだろうか。そうめんへのネガティブなイメージを崩すそうめんがはなまるうどんから飛び出して私の知覚に入ってきたのだった。

ある夏、その時もうだるような暑さ。当時渋谷で働いていた私は休憩時間に食べる昼食を考えあぐねていた。ん〜と手持ち無沙汰になってTwitterを見ると、バズったツイートが目に入る。

はなまるうどんのそうめんがうまい」

そんなツイートだった。なんでそんなシンプルな意味合いのツイートがバズったのかはわからないが、確かそうめんがはなまるうどんから出たのが初めて?久しぶり?だったらしい。そうめんだけではなく梅やネギの薬味もちゃんとついてくる。偶然にも私の職場ははなまるうどんにめちゃくちゃ近かった。し、ギラッギラに太陽が出ている真夏、久しぶりにそうめんにチャレンジするのもいいかしらとその時は思えたのだ。いまツイートを探しても出てこな買ったのだが、それほど食欲をそそるツイートだったような気がする。ま、苦手でも天ぷら食べれるしね。天ぷらはずっと好きなのだ、私は。

決めてからの行動は早かった。財布を手に持ち競歩でも練習しているのか、というスピードの早歩きで渋谷の人混みをかき分けかき分けはなまるうどんに向かっていく。歩くスピードが速すぎて、人と私の間に一瞬抵抗からできる風圧が発生していたかのようにも感じた。
はなまるうどんに入ってからも、私はソワソワしっぱなしだった。絶対そんなことあるわけないのに、売り切れていたらどうしよう、前の人で最後になってしまったらどうしよう。この気持ちのままかけうどんを食べることは今の私には到底できない。無理だ。

ドキドキしながら迎えた私の注文の番。緊張しながら「そうめんのやつ」と声をかける。威勢のいい掛け声にホッとした。まだそうめんはあったのだ。そうめんと合うかもわからないのに、とりあえずさつまいもと半熟卵の天ぷらも皿に乗せておいた。
どうぞ、という声とともにそうめんがトレーに置かれる。なんてことない冷製のそうめんだ。代金を払い、カウンターに座る。天かすはどうしようかなと思ったが、一旦乗せておくのはやめておいた。

さて、数年ぶりに食べるそうめん。急に後悔の波がすぐ後ろまで近づいているような気分になった。その日は給料日まであと三日。この貴重な千円をこのそうめんに使ってよかったと思えるのか?もしかしたらいつものように歩いてすぐのセブンで、すじこのおにぎりでも買っといた方がよかったんじゃないのか?この千円で得れる幸せが他にもあったのでは?と暑さもあって頭の中がぐるぐるしてきた。しかし払ってしまったものは仕方ない。水を勢いよく飲んで、そうめんを一口食べることにした。

「うまい」うまいのだ。
びっくりした。うまいよ、そうめんってうまいんだ!

つるっとした食感と、柔らかさはありつつもちゃんと芯がある。そしてうどんと比べて軽い食べ心地が喉を通り過ぎるたびにスッキリする。うわあ、そうめんって美味しいんじゃん。
なんで今まで避けてきたんだろう。そもそも苦手になったのだって食べ過ぎが原因だったわけで、そうめん自体を嫌いになったわけではないのに。

かくして、私はそうめんへの忌避感情をなくすことができ、なんなら割と好物の部類に入るまでになった。ちなみに、さつまいもと卵の天ぷらはそうめんには合わなかった。


そして夏がまたやってきた。止めどなく流れる汗といつまで経ってもフラフラするような熱気、さらにウイルスの脅威と様々なネガティブ・ポイントが夏にはてんこ盛りだが、今は一筋の光をそうめんに感じることができる。
まるで茹でる際に広がったそうめんたちの一本一本が曇天から降り注ぐ光のようだ。天からの思し召しなのか。ぐるりと鍋の中で菜箸を回す、これが神への愛の儀式なのだと。エイメン。

いやそこまでではないか。
夏がなくなる代わりにそうめんが世界から消えてもいいか?と言われたら、0.1秒もかからずに頷くと思う。
しかしそんな問いかけは一生ないので、この夏もそうめんと一緒に共存していこうと思う。