自己中と言われて

一昨日、友人から「あなたは自己中だね」と言われた。もっというと、「人をコントロールする癖があるよね」とも言われた。私は自分の不毛な感情に泣きつかれて目をはらしていたときのことだった。
どちらも身に覚えがある言葉で、その友人はかれこれ3年ほどの仲になるが何度も私の言っている内容にそう思っていたらしかった。私はハッとした。だけど、このハッとしたのは初めてではなく、生きていた中で何度もハッとしていたうちの一つとなった。面と向かって(実際には電話だったが)そう言われたのは、歴代の恋人を除いて初めてだった。私の友人は割と忖度をしない人間ばかりだ。そうやって言ってくれることについてはとても感謝しなければならない。その指摘を自分の人生にうまく使えるかはまた別の話になるのだけど。

5月の東京文学フリマに申し込むことにした。昨年の秋ごろにちゃんと自分の文章をまとめてZINEにすると言ってからもう半年になってしまった。締め切りまでの方が短いのに、どうして今までやらなかったんだろうとも思った。
いま、私には有り余るエネルギーがある気がしていて、それを人にぶつけて自滅している最中と気づいたのが、今日、いまさっき、正確に言うなら21時ごろだった。昨日とは別の友人にすぐに電話する。売り子を一緒にしてくれないかと頼んで、彼女は快諾してくれた。彼女にも、今自分が置かれているかなり自己中なことを話したところ、「四方八方に爆散してるな」と返してきて、本当にそうだなと笑ってしまった。
そもそも私はZINEや同人誌を作るのが初めてであることに、申し込みをした後に気が付いた。仕事で出版の進行管理をしていたことも思い出して、このスケジュールじゃきっと印刷所に出したりするのは難しいなと思った。
幸いZINEの制作に強い知り合いがいるので、彼を頼るつもりでいる。ここまで書いておいて、やっぱり私は自己中なのだと思った。でもそれでいいやとも思っている。

ポケモンレジェンズアルセウスを買った。本当は一か月後にスイッチを買いなおした理由であるカービィ最新作が発売されるので、本当は買わない方がいいんじゃないかなと思ったが、とにかく暇をなくしたかった。
近くのゲオは23時くらいまでやっているので、助かった。

最近見てウケた風景2

お疲れ様です。あけましておめでとうございます。
年末年始はいかがお過ごしでしょうか、という言葉がある。これは年末年始真っただ中だけでなくて、年末年始が過ぎ去ってからも言っていい言葉なのかいまいちわからず、とりあえず自分の仕事が始まってからは

「年末年始どうでしたか?」

とあいまいな表現に逃げることで事なきを得ているつもりになっている。

忙しいわけではないが、最近は人生のターニングポイントに差し掛かっている気がして焦ってしまい、なかなかことを進めることが出来ていない。考えてみればもう26歳になったのだ。私と同じ1995年、1996年の早生まれの皆さん、私たちは26歳になるんですが、大人になったと思いますか?
私はいまだに思えない。ていうかなんなら35歳くらいでもガキだな~と思うこともあるので、みんな全然大人になっていないようだ。
だけどたまに同世代がマイホームを買ったりローンを組んだりしていると、さすがに少し焦ってしまう。マイホームて!

 

ここからは最近見て面白かった景色などです。最近のじゃないのもあります。

 

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荻窪にいたけどしこたまかわいかった こんなのたくさんいた 何?


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カシオフリカケ


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川崎バナナ普通に聞いたことないな


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厚待遇

 

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昔の私だ チャッキーの子供

 

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そこに降りてどうするんだろう

 

 

ガーッと生きてドターッと休む

もう限界だ!

ない力を振り絞って稼働し続けている体が叫んでいる気がした。胃は荒れているし珍しく顔にニキビができている。不摂生でしれっと出てくる小さいやつじゃない。今か今かと外に出るのを待つもぐらのような根深いニキビだ。ここ数日、キャパオーバーぎみだった。泥のような汚水を溜め込んだみたいに重くなった頭を引っ提げて、近場の銭湯に駆け込んだ。体を洗ってため息ついて、広いとは言えない湯舟に自分を沈めた。

むおーんと体の端から端まで熱い湯が駆け巡る。銭湯に行ってお湯に浸かる瞬間が一番無になれる。たくさん頭を使うと脳みそが汚れたような気になる。毎日のお風呂じゃ取りきれない汚れを、銭湯だと綺麗に落とせる気がする。家より絶対雑菌だらけなのに。何もない時間がそこまで好きではないので、一人でいる時もいつも何かを空想したりするようにしている。唯一銭湯のでっかいお風呂に浸かっている時だけ空っぽな人間になれる気がするのだ。

銭湯に行った日はいつもより眠れる。かなり眠れる。眠くて眠くて仕方がない。明日からまた色々考えればいいよね、私の体がそういうふうに指令を出しているのかもしれない。もう今日はいいよね。頑張ったよね。口に出して布団に入ってみる。いつもならなんだかおさまりが悪くて眠れないけど、今日は眠れる。体が布団に吸い込まれた。眠っていた。

学生時代にバイトしていたコールセンターにいたおじさんが言っていた。
「俺の人生なんて、ガーッと生きて、ドターッと休む。これだけ! これしかねえんだよ」

おじさん。わたし、いまそれ。

最近割とウケた風景

引っ越しをしたり仕事を一生ミスしたりしていて、あまり文章を書く気が起きなかった。私はかなり物事に取り掛かるのが遅い。かなりというかもうめちゃくちゃむちゃくちゃ遅い。やりだしてからは人並みに、月並みに、凡人並みにきっと進められるのだろうと少し前まで思っていたけど、そんなことはなかった。手をつけてからも進みは人たちより、わかっていたけれど、遅かった。

なのであまり考えなくてもなんとかなりそうなものをとりあえず置いておきます。最近見つけたウケた風景です。

 

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マリオカートの加速板みたいな道路表示

 

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うまいチャーハン、当たり前だろ

 

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食べられる側なのに

 

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セッティングする余裕があるなら捨てるな

 

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恋人同士の空き缶

 

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うるさい人は見ないだろ

 

以上です。
またなんかウケる風景あったらお裾分けしようと思います。

さよなら

3年間住み続けた家からついに卒業する時が来た。
4年前に横浜から東京という短距離間でこっちに出てきて、いまだに実家にいた時とさして変わらない行動範囲なのを考えるともう少し実家で暮らしてもよかったのではと感じるが、それでも私は一人暮らしのために東京に出てきて本当に良かったと思っている。

実家はとても苦手だ。横浜という地と、うまく機能できなかった家族を思い出すと、近くても帰りたくない場所。コロナを理由にもう一年ほど帰っていない。幸い母親も気を使ってくれ帰省を要求することはないのだけれど、「帰ってきて」と言われてもほとんど私は帰らなかったと思う。往復800円しかしないのに、それでも帰りづらい場所。母親にはごめんとしか言えないが、そんなこともわかっているのか彼女は私に深入りしようとしないでいてくれる。ありがたいが、同時に罪悪感も同じ重さでのしかかってくる。

少し疲れた。

そうめんとの共存

お題「夏に食べるもの」

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毎年、6月あたりから「おや、今年も半袖が着れるようになってきたな」と、冬から続く長袖の服たちをしまえるような陽気に感謝をするようになる。少し動いただけで汗がじんわりまとわりつくような長袖から、通気の良い半袖に衣替えをするたびにあったかいっていいなよあ、と感じることが増える。
しかし毎年7月あたりにやっと気付くのだ。夏は私にとって地獄の季節であり、忌み嫌うべきものだということを。

ここ数年、7月の半ばあたりから気温は30度をゆうに超えてくる。意味のわからないほどの熱気が日本を襲う。汗っかきの私にとっては、また地獄が始まる、と6月あたりに感じていた感謝の気持ちから手のひらを返して日本の気温を恨むようになるのだ。今私が住んでいるところが日本というだけで、昔旅行にいったハワイでもいくら湿気がないとはいえ日陰でもその地獄の気持ちは変わらないほど暑い。つまり真夏は一年の中で一番嫌いな季節なのである。

8月上旬の現在、外に数分出ただけでも泣き出したくなるほどの暑さが昼間を司っている。さらに、去年初めから世界に蔓延する新型コロナウイルスのおかげでほぼ全日本国民がこのクソ猛暑のなかマスクをせざるを得ない状況に陥っている。
少し前であればこんなに暑くなかったし、マスクなんてもってのほかだったので「暑いね〜!」とか言いながら、友人とキャッキャとかき氷を食べるためだけに日陰もない表参道の道路に並ぶことができた。だが、流石にこんな状況になっては去年、今年とそんなことはできていない。している人がいるとすれば、それはキラキラインスタグラマーではない。被虐愛好家だ。

そんな不自由な今年の夏でも私の心を躍らせてくれる風物詩がある。あまり季節のイベントに興味がない私だが、この時ばかりは定義づけたマスメディアには感謝するしかない。私が足を向けて寝れないのはどこだ。お台場か。六本木か。赤坂か。

そうめん。夏といえばそうめんなのである。

あらゆる飲食店にそうめんのメニューが頻出するようになるのが夏だ。さらに、私の家から5分のスーパーは夏になると揖保乃糸がかなり安くなる。まるで季節の野菜みたいな価格変動だが、三年住んでいて三年とも安くなっているのだからそういうこともできるのだろう。だって夏なんだから。
私は夏になると(正確には7月に入って暑さが尋常じゃなくなると)急いでそうめんを買いに走る。そのままスタンダードに茹でて麺つゆで食べてもいいし、豆乳スープでラーメン風にして食べるのもよい。今年Twitterで見つけたスパイスを使ったレシピも試してみたが、これまた美味しかった。クミンとツナの風味が、どうしてだかそうめんのつるっとフニャッとした感触と合うのだ。大食いの私でも夏は必ず食欲が落ちてしまうのだが、それを救ってくれるのは、そう、そうめんだ。

しかし昔からそうめんが好きだったわけでもない。
なんなら数年前までは苦手な食べ物だった。

中学生の頃まで遡る。
夏休みは親が頑張って毎日昼食を作って出してくれていた。それには今でも感謝の気持ちしかないが、作るのが楽だからか一週間に一回はそうめんが出てきていた。幸い母親も父親もそうめんに対してはどちらかというと好感度高めだったので、コンスタントに切らすことなくメニューがそうめんの日は続いていた。私はそうめんが出てくるたびに「またそうめんか」と思ったのだが、そう思うだけだった。そういう感情しかなかった。

そして、中学三年生、夏休み最後の日、いつものようにそうめんが出てきた。特に私はそうめんのことが好きでも嫌いでもなかったので、ごく普通に食べ、ごく普通に完食した。その時、声には出さなかったが、あることに私は気づいた。

「そうめん、食べるたびに胃のなかが気持ち悪くなっている気がする...!」

たまにこんな話を聞くことがある。好きな食べ物を何度も何度も食べていると、食べすぎて気持ちが悪くなり、その末に今後いっさい食べたいと思わなくなるほど苦手になってしまう。これを読んでいる人の中でも、一定数そういう出来事を経験したことがあるかもしれない。
つまりその時の私は同じようにそうめんを食べすぎて気分が悪くなっていた。

そうはっきりと感じる*まで自主的に食べようと思っていないので、気付くまでに時間がかかっていたのだが、実は週一回はなんとなく食後の気分が悪いと思うことが必ずあった。特に重大な病気などではないと思っていたが、まさかそうめんのせいだったとは。
* そうめんを食べすぎて気持ち悪くなると思うまで

それから私はそうめんをいっさい食べなくなった。夏以外そんなにそうめんと巡り会う機会がないので、そこまで困ることはなかったが、毎夏「そろそろそうめんの季節だね〜」とか腑抜けた会話が起こっていてもうまく乗り切れず、しまいにはそうめんが苦手とばれてなんとなく「そうめんが嫌いなことってあるのか?」みたいな、なんだこいつという目を向けられることもたまにあった。少し、その時ばかりは気まずかった。


しかし、その数年後、いまから四年前くらいだろうか。そうめんへのネガティブなイメージを崩すそうめんがはなまるうどんから飛び出して私の知覚に入ってきたのだった。

ある夏、その時もうだるような暑さ。当時渋谷で働いていた私は休憩時間に食べる昼食を考えあぐねていた。ん〜と手持ち無沙汰になってTwitterを見ると、バズったツイートが目に入る。

はなまるうどんのそうめんがうまい」

そんなツイートだった。なんでそんなシンプルな意味合いのツイートがバズったのかはわからないが、確かそうめんがはなまるうどんから出たのが初めて?久しぶり?だったらしい。そうめんだけではなく梅やネギの薬味もちゃんとついてくる。偶然にも私の職場ははなまるうどんにめちゃくちゃ近かった。し、ギラッギラに太陽が出ている真夏、久しぶりにそうめんにチャレンジするのもいいかしらとその時は思えたのだ。いまツイートを探しても出てこな買ったのだが、それほど食欲をそそるツイートだったような気がする。ま、苦手でも天ぷら食べれるしね。天ぷらはずっと好きなのだ、私は。

決めてからの行動は早かった。財布を手に持ち競歩でも練習しているのか、というスピードの早歩きで渋谷の人混みをかき分けかき分けはなまるうどんに向かっていく。歩くスピードが速すぎて、人と私の間に一瞬抵抗からできる風圧が発生していたかのようにも感じた。
はなまるうどんに入ってからも、私はソワソワしっぱなしだった。絶対そんなことあるわけないのに、売り切れていたらどうしよう、前の人で最後になってしまったらどうしよう。この気持ちのままかけうどんを食べることは今の私には到底できない。無理だ。

ドキドキしながら迎えた私の注文の番。緊張しながら「そうめんのやつ」と声をかける。威勢のいい掛け声にホッとした。まだそうめんはあったのだ。そうめんと合うかもわからないのに、とりあえずさつまいもと半熟卵の天ぷらも皿に乗せておいた。
どうぞ、という声とともにそうめんがトレーに置かれる。なんてことない冷製のそうめんだ。代金を払い、カウンターに座る。天かすはどうしようかなと思ったが、一旦乗せておくのはやめておいた。

さて、数年ぶりに食べるそうめん。急に後悔の波がすぐ後ろまで近づいているような気分になった。その日は給料日まであと三日。この貴重な千円をこのそうめんに使ってよかったと思えるのか?もしかしたらいつものように歩いてすぐのセブンで、すじこのおにぎりでも買っといた方がよかったんじゃないのか?この千円で得れる幸せが他にもあったのでは?と暑さもあって頭の中がぐるぐるしてきた。しかし払ってしまったものは仕方ない。水を勢いよく飲んで、そうめんを一口食べることにした。

「うまい」うまいのだ。
びっくりした。うまいよ、そうめんってうまいんだ!

つるっとした食感と、柔らかさはありつつもちゃんと芯がある。そしてうどんと比べて軽い食べ心地が喉を通り過ぎるたびにスッキリする。うわあ、そうめんって美味しいんじゃん。
なんで今まで避けてきたんだろう。そもそも苦手になったのだって食べ過ぎが原因だったわけで、そうめん自体を嫌いになったわけではないのに。

かくして、私はそうめんへの忌避感情をなくすことができ、なんなら割と好物の部類に入るまでになった。ちなみに、さつまいもと卵の天ぷらはそうめんには合わなかった。


そして夏がまたやってきた。止めどなく流れる汗といつまで経ってもフラフラするような熱気、さらにウイルスの脅威と様々なネガティブ・ポイントが夏にはてんこ盛りだが、今は一筋の光をそうめんに感じることができる。
まるで茹でる際に広がったそうめんたちの一本一本が曇天から降り注ぐ光のようだ。天からの思し召しなのか。ぐるりと鍋の中で菜箸を回す、これが神への愛の儀式なのだと。エイメン。

いやそこまでではないか。
夏がなくなる代わりにそうめんが世界から消えてもいいか?と言われたら、0.1秒もかからずに頷くと思う。
しかしそんな問いかけは一生ないので、この夏もそうめんと一緒に共存していこうと思う。

四月の神奈川は寒い

神奈川のとある駅に私は降り立った。もう四月だというのに、いまだに冷たさを孕んだ風を体全体で受け止めている。

地元神奈川を離れてもう四年。横浜のニュータウンで生まれ育った私だが、二十一年住み続けていても神奈川の地にはどうにも馴染めなかった。実家にいた時代から遊びに出かける際は渋谷か新宿と決めていて、今や都内で淡々とした一人暮らしをしている自分が今になって相模大野に向かったのは、これから訪れる長い休みの前に自分のルーツを見直したくなったからだった。

この地によく来ていたのは高校を卒業してすぐの頃。町田の近くに住んでいた友人に連れられて、しょっちゅう駅近くの喫茶店に入り浸っていた。その喫茶店は壁一面に映画のポスターを貼り付けていて、昼でも薄暗い。様々な大きさのソファと小さなテーブルが並び、店の中央にはボードゲームとスナック菓子がいくつか置かれている。

高校時代の友人と落ち合う時は決まってこの喫茶店と決めていた。年に数回あって、薄暗い店内の中で驚くほどリーズナブルなメニューとお酒を頼み、お互いの近況報告をしあう。今でこそ月日が経って疎遠になってしまったが、その喫茶店に集まる地元の若者たちで賑わう店内と、少しずつお互いの成長を感じていたあの時間は確かに私の中でまぶしく輝く記憶のピースの一つだ。

だが、今日相模大野に向かったのはその喫茶店目当てではない。その喫茶店を越えた先にある、タロット占いをしてくれるカフェを目指していたのだ。そのカフェにも昔いちどだけ訪れたことがある。ランチを頼むと一時間タロットで希望の事柄について見てくれる、というカフェだった。前に行った時からもう四年も経っている。その当時付き合っていた恋人について悩んでいた私を高校時代の友人が連れて行ってくれたのだ。

占いというものにちゃんと向き合ったことのない私にとって、本格的な占いを受けるのは初めての出来事だった。カフェのマスターはとても親身な人間で、優しく人々を包むような、ときたまバシッと激励の言葉をかけるような人柄である。人気の証か、私が占いを受けている時も別の客がカフェに訪れて占いの予約をしていく。

短くない年月が経っているので、私は少し緊張していた。予約をしっかりしたし、場所もわかっている。でももしかするとあの店は私の記憶の中で在り続けているだけで、すでに現実の中では無くなってしまっているのでははないだろうかとまで考えていた。
そんな妄想とはうらはらに、確かにタロット占いのカフェはそこに存在していた。少し重い扉を開けると一際大きく元気な女性の声が耳に飛び込んでくる。

「だから、私は絶対に幸せになる!」
「それはいいんだけど、そのままじゃダメなんだって!」

大きな声で男女が言い合いをしている。男の方はこのカフェの占いをしてくれる、というマスターだ。ひときわ大きい声ではしゃいでいるのは、女の方。きっと前の時間で予約していた客だろう。私より少し若そうに見える彼女は、占いの内容から発展して人生相談をしているところのようだ。

席に通されてメニューを出される。そのまま暖かいロイヤルミルクティーを出してもらい、私は彼女たちが話し終わるのを待っていた。彼女たちの話に耳をすませていると、とても話の内容がおかしくてときどきこちらまで笑いそうになってくる。

彼女はものすごく、なんというかパワーのある人間だと感じた。確かに言っている内容は「いい大学の男性と付き合いたい」とか、「この大学に受験したい」など突拍子もない話ばかりしているのだが、彼女自身がもっている力強さと自己肯定感によって、なんだかもうそのまま突っ走ってくれ、というしかないくらいの行動力を感じる。

「二十歳になったら全部変わるから! いい大学入って、好きな男の子とここに来るんだからね! 見ててよ!」

彼女が大きな声で冗談っぽく言う。それに対してマスターが「何言ってんの!」と負けずに大きな声を出す。とうとう私は堪えきれず笑ってしまった。
オンステージだ。そう狭くないカフェで、私とマスター、そしてカフェのスタッフ一人という少ない四人の客相手に漫談を行っているような。

「ごめんなさいねえ、こんなにうるさくて……」マスターが申し訳なさそうに私に向き直る。
「いや、面白くてつい笑っちゃいました」
「この際だからこの子に言ってやってくださいよ。ねえ、あなたは何歳?」急に巻き込まれる。
「私? 私はもう二十五になります」

ほらあ、と納得したようにマスターは女に向き合う。女は二十歳にもならない若い学生のようだ。二十五歳の観点からみて、この子どう思います? と話を振られてしまったので、改めて横の席にいる彼女に体を向ける。キラキラした真っ直ぐな眼をこちらに向けて私の言葉を待っている。いやあ、私はただの客なのに、何かこの人に言っていいものだろうか。

だが、何かの縁のように感じたのと、マシンガントークで楽しそうに話す彼女を見ていると昔の自分を見ているようで少し懐かしく思い、私は少しでも大人っぽく見えるように言葉を選びながら話すことにした。

実際、私だって周りの二十五歳より大人びているわけではない。もっといろいろ深みのある経験をしてきた同年代がいるだろう。もちろん私自身もそれなりに辛い思いをしたり、自分自身でどうにもならないほどの問題にぶち当たってはいたが、結局いまだにその問題に対して答えを出せていないことなんていくつもある。

「えっと、まず、それだけ強い思いがあるってことは素敵だと思います」
「でしょ! 嬉しい!」とびきり素直に彼女は笑う。目の前にいるマスターはすでに呆れ顔だ。
「でも、あえて言うなら、道を一つだけに絞らなくたっていいのかな、とは思って……もちろん、自分がやりたいことを叶えられるならそれに越したことはないんだけど、それが絶対叶えられるとは限らなくてね。そうなるくらいなら、一つの道だけじゃなくていろんな可能性を見て動いていくってのもいいんじゃないかなと」

そう言いながらこれまでの自分の歩んできた短い人生を思い返していた。私も昔に「やりたかったこと」でご飯を食べたいと思いそれなりに努力をしていたが、好きなものは好きなもの。仕事にするとなると、とても辛い思いをしなければならないこともあった。

だけど、それに耐えることができなかった。仕事だけじゃない。友人関係でも恋人との関係でも、全て自分の思い通りに行くことはなく、流動的に変化していく状況に合わせて自分の行動を変えなくてはならないことがたくさん、たくさんあった。隣にいる彼女を見ていると持っているパワーの強さを尊敬しつつも、もし何かを諦めなければいけない時がきたら、ぽっきり、彼女が思っているよりも簡単に心が折れ真っ白になってしまうこともあるのではないか、と心配になるのも事実だった。
 
当の彼女は、うんうんと深く肯いたかと思えば、それでも、と言わんばかりにひどくポジティブな感情をさらけ出してきた。

「それでも私はやりたいんですよ!」
「だめだ! 二人がかりで言ってもこれなんだもん! 強すぎる」
「ねえ、なんでそんなこと言うの! ひどい!」

くだらないじゃれあい。ここまで折れない、強い主張がある人を久しぶりに目の当たりにした。いつもの私ならひどく苛ついていたかもしれない。だが、その日は自分のこれまでの歴史を振り返ろうと思って神奈川の地に訪れたのもあって、自分の昔を見ているような暖かな気持ちになった。もはやここは、占い屋ではない。まるで午前0時の常連ばかり集まるバーのような賑やかさを持っている。前に行きつけのバーが欲しいなと思ったことがあったが、今この状況は結構近いのではないかとさえ感じた。

私も変わった。昔は初対面の隣の席の客と話すなんて考えられなかったのに、事実、そういう機会があってもうまくコミュニケーションが取れなかった苦い記憶があったのに、この場では自然と昔からの友人と話しているように振る舞えている。
それは自分の変化でだけではなく、隣にいる彼女の輝きがそうさせてくれているのだ。年下の人間と話すのは苦手だったはずだ。それでも、眩しいくらいの明るさを放つ彼女にやられていつの間にか暖かな笑いがそこに発生している。

そろそろ私の占いを始める、という時間になり年下の彼女は帰り支度を始めた。その最中もずっとマスターと冗談めいた言い合いをしている。私の周りにいないような勢いの良さに、思わず私も「幸せにね」と声をかけていた。

 

「ねえ、彼女走って帰っていってますよ」

外まで彼女を見送ったカフェのスタッフが呆れたように言う。嵐が過ぎ去ったように静かになった店内で、私は思い出し笑いをしてしまった。

予約通り占いをしてもらい、そのカフェを後にした。普通では考えられないような大騒ぎをした後だったので、少し疲れている。私はといえば安定を求めず自分のやりたいように幸せになりなさい、ということを伝えられたのだが、マスターも思わず

「まあ、やりたいことやりすぎると、ああなっちゃうのかもしれないけど……」

と年下の彼女を思い返すように呟いていた。

急に一人になり、なんとなくあの騒がしさを忘れたくない私は、そのまま帰るのをやめて前述の馴染みの喫茶店に向かうことにした。少し余韻を感じる時間が必要であった。しばらく行っていないといえ体は覚えている。すぐにその喫茶店を見つけることができた。

よし、ここはまだ煙草を吸えるな、と喫茶店の外壁に付けられている「喫煙可能店」のプレートを見てほっとした。都内はもうほとんど喫茶店や居酒屋でも煙草が吸えなくなっている。困ったもので昔から喫煙可という看板を守り続けていた店も、ここのところ時代の流れに押されどんどん禁煙店に鞍替えをしている。扉を開けると、記憶のままの薄暗い店内が私を迎えてくれた。まだ夜とは言えない時間だが席の八割は先客で埋まっている。小さなソファのある席に座ってアイスココアを頼んだ。

待っている間、煙草を吸いながら店内をちらと見渡してみる。三人くらいの若い女性がきゃっきゃと楽しそうにおしゃべりしているテーブルがあれば、一人で物思いに耽っていそうな渋い男性客もいた。スケートボードを壁に立てかけてヒップホップ音楽の話をしている男性二人組がいて、近くにはその客と楽しそうに話している従業員もいる。

アイスココアが席に届いた。焦げ茶色のココアの上には、柔らかなホイップクリームがかけられている。ひと口飲むと、ココアといって思い浮かべるような味ではなく、ふわりと花の香りがするようなオリエンタルな味が口の中に広がる。花の蜜みたいだ、と私は懐かしい気持ちになった。

私が小学生の時、下校中にツツジの花の蜜を吸いながら帰るのが流行っていた。お小遣いも少ない中で、いかに空腹を満たすかを考え一定数の子供がたどり着くのが、花の蜜を吸うことだった。あれも実はすごく美味しいというものではなかったが、夕日が差し込む中友人たちと騒ぎながら甘さしか感じない花の蜜を吸うのは、結構面白いものであった。このアイスココアはその味に近い甘さがある。
ココアのテクスチャーはさらりとした水分量を多く感じるものである。飲み口はさっぱりとしているが、その独特な甘さゆえ一気に飲み干すことは難しい。少しずつしか飲めないその甘さも、小学生の時に見た気怠い夕日を思い出させてくれる。ノスタルジック。

今日はいろいろ、昔を思い出す日だったなと心の中で呟いた。自分の生まれ育った地に赴くことで何か初心にかえれるような気分になるかもしれない、という期待を持っていたのだが、図らずしも考えていたよりも直接的に自信を振り返る出来事に出会ってしまった。

昔、早口で何を言っているかわからないと言われてしまったことがある。その時はそこまで早口に喋っているつもりはなかったのだが、今日の年下の彼女を見ているとそう言われた意図がわかるような気がする。
考えているより自分は大人になったのかもしれない。

「ねえ、だから言ってるじゃん! あたし、一年後には絶対付き合ってみせるから!」

近くのテーブルの女性が身を乗り出して連れの女性に宣言をしているのが聞こえた。私の席からかろうじて見える彼女の顔は、決意に満たされ晴れ晴れとしている。

今日は人の宣言ばかり耳に入るな。苦笑する。私はイヤホンをつけFINAL SPANK HAPPYの「エイリアン・セックス・フレンド」を流し私は一人の世界に入ることにした。

アイスココアを啜った。それで今日は終わった。